医王山 薬師寺 密蔵院

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密蔵院の略縁起

天養元年(1144)時代から小仏堂としてあったが嘉暦三年(1328)に開山慈妙上人が来寺して葉上流潅頂を伝へた。
篠木談義所(しのぎだんぎしょ)を開設、3千の僧侶が学んだという。また、末寺は400に及んだという。

現在潅頂は4年に1回開設しております。

密蔵院は比叡山を本山とする天台宗の寺院です。

今から700年余り前のある日のことです。
野田(のだ)・牛毛(うしげ)・名栗(なぐり)(現在の熊野町)の人たちが、不思議な夢を見ました。
下(しも)街道(旧国道19号)を何千匹もの猿が手に手に松明(たいまつ)をかざして、天地を照らしながらこちらへやって来るではありませんか。

朝になると村人たちは家の外に飛び出し、口々に
「ああ、おそろしい夢をみた。まだ胸がどきどきする。」
「おまえさんもみたのかい。ああいやな夢だ。」
「こんなに皆が同じ夢をみたのは、この村はじまって以来だ、何ぞ悪いことでも起こりゃせんかと心配じゃ。」
「そうじゃ、そうじゃ、猿がみんな松明を持っとったで、村火事にでもなりゃせんか。」
などと、がやがや騒いで、その騒ぎがだんだんと大きくなり、集まった村人の群れは知らぬ間に下(しも)街道へ出て上(カミ)の方へ移動していきました。

その時、通り合わせた一人のお坊さんが、この騒ぎを聞いて、
「みなの衆、なにも心配することはない。猿は山王(さんのう)さまのお使いで、松明は道案内だから、必ず近いうちに徳の高いお坊様がこられて皆の衆を救って下さる。」
と告げました。

数日の後、その言葉どおり、慈妙上人(じみょうしょうにん)が、東濃御嵩(とうのみたけ)(岐阜県可児郡御嵩町)の願興寺(がんこうじ)から白い牛に乗って来られ、堂の元(どうのもと)(密蔵院のある場所)に着かれました。
上人(しょうにん)が牛から下りられると牛がパーッと消えてしまいました。
このことから牛消(うしぎ)えといい、牛毛(うしげ)と呼ぶようになったといいます。

この言伝えのある密蔵院は、鎌倉時代の1328年に創られた学問と修行のお寺で、慈妙上人が天台の密教と臨済の禅を学び葉上流(ようじょうりゅう)という教えを広めました。
日本各地から3000人を超えるお坊さんが葉上流の教えを学び、修行をして位を授かったそうです。

本来は、医王山薬師寺(いおうざんやくしじ)の名が本当なのですが、慈妙上人が後伏見院の病気を加持祈祷で治されたので、密蔵院の院号を賜り、「密蔵院」と呼ぶようになりました。
また、九竜膏という目薬を寺から出して眼病に苦しむ人々を救ったそうです。

この上人も1361年、71歳で亡くなりました。

盛んだった密蔵院も応仁の乱から戦国時代にかけて衰えていきました。
ことに信長の比叡山焼打ちは地方の天台宗にも大きな影響を与え経済的にも困るようになり、無住(むじゅう)になったり他宗にくら替えする寺院が続出しましたが、密蔵院は戦火を免れました。
しかし、記録によると、庄内川(しょうないがわ)堤防決壊の水難は毎年あったようで、建物の腐朽、古文書・典籍などへの水害が大きかったことが認められます。

名古屋城の三の丸の東照宮別当(べっとう)職神宮寺は天長山尊寿院(そんじゅいん)、または権現坊(ごんげんぼう)とも呼ばれ、比叡山の日増院とこの密蔵院を兼務(けんむ)していましたが、明治5年12月別当廃止により、専(もっぱ)ら尊寿院を用いて密蔵院住職の歴代をつとめました。
尊寿院は天海を開基(かいき)としています。

経済的には、江戸初期の復興による密蔵院の繁栄も尾張の国からの寺領や寄進による収入によって維持されていました。
これは、尊寿院との深い関係のもと尾張の保護下にあったためです。
そして、明治維新の神仏分離や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と、戦後の農地解放などを経て今日に至っています。

【出典】
天台宗開宗千二百周年記念 天台宗東海教区 寺院名鑑「悠久」 (平成15年)
天台宗東海教区寺院名鑑編集委員会・編

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